復元可能な灰壺

個人的な感想文ブログ

100人の男の子が1人になるまで殺されるスプラッターノベル『ムートン・ノワール』感想

羊おじさん倶楽部制作、『ムートン・ノワール』という15禁フリーゲームをプレイしました。

 選択肢や分岐無しで、プレイ時間は約1時間。

 

山奥の学校に集められた100人の子ども達が最後の1人になるまで、周囲の大人たちに殺され続けるというスプラッターもの。

ともすれば空回った痛々しさだけが残る厨二病的作品になりそうな設定だけど、文章がしっかりしていて、かつそうなるに至った理由も明かされているので実際はその逆。

上質なノベルゲー体験をさせてもらったという気持ちで胸が一杯です。

面白かったし、私は大好き!

 

 

殺戮シーンについて

まず今作の売りである子ども達へのバイオレンス描写が魅力的。

私のお気に入りはモブキャラ:イザークが教科書に落書きをして、罰としてこの学園の監視員こと処刑者のマネキンに殺されるシーン。

(生理的に気分が悪くなる系の描写なので苦手な方は注意)

瞬間。
膝下にしゃがみこんだほうのマネキンが、イザークの膝と腰を怪力で押さえつけた。

何かと思う間もなく、イザークの背後に立っていたもう一人のマネキンが、優しく抱き込むように彼の頭部へと両手を当てる。

そのまま単なる体重以上の重みをイザークの頭頂にキリキリと掛け始めた。


ぎょげげげげとおよそ人らしからぬ声でイザークの喉は鳴いた。

足元のマネキンに固定されているせいで膝腰の関節がわずかなりとも曲がらず、コンクリートへとのめり込むような足裏の感触とともに、真っ先にきしみを上げたのはイザークの背骨だった。

 

人体の脊椎は骨で出来た椎骨と、軟骨でできた椎間板が交互のサンドイッチ状に層をなしていて、そのおかげで人は背中を曲げたり伸ばしたりができるようになっている。

そのサンドイッチの具の側。柔らかい軟骨製の椎間板。

これが頭頂から尾骨に至るまですべて隈無く押し潰され、ゲル状の髄核が飛び出る。

ヘルニア特有の神経を直に焼く激痛が脳下部に突き刺さり、イザークは思わず喉をね
じるような金属的悲鳴と脂汗を垂らした。


もちろんそれだけでは済まされない。

椎骨同士が擦れ合ってごりごりと互いを削り合うに至ってもマネキンは圧迫を緩めなかった。

頭蓋に縦ヒビが入って、鼻や耳から血を流し白目を剥くイザーク。


先に限界を迎えたのは頚椎だった。

堪らず無意識に首方向へ圧力を逃そうと傾けた頭蓋骨が脊椎から滑り落ちて、首が前後にガポっと外れる。

イザークにとっては幸いなことに。この時、彼の意識は引きちぎられた頸動脈からの大量失血が原因で瞬時にブラックアウトした。

 

しかしむろん、マネキンは手を止めない。

首の皮だけで繋がったイザークの頭が手放されて胸の前で裏返り、後頭部を逆さに晒したままぶらぶらと揺れる。

マネキンは、イザークの後ろ首から少し突き出た白い脊椎の頭頂に手を掛け直して、さらに自重を押し込める。

再び脊椎同士の押し合いでごりごりときしむ音が周囲へと響き渡る。

 

続けて限界を迎えたのは骨盤と脊椎の結節点。

仙腸関節がはずれ、尾骨がイザークの臀部の肉を破り、そのまま股下に突き出る。

怪力を受け止めさせるのに背骨が使えなくなった次は、両肩に腕をかけて。

マネキンの指の間で崩れる僧帽筋は水を吸いすぎた粘土のような音を立てて、骨の割れ目へと練り込められる。

鎖骨が真ん中から折れて肺へとのめり込む頃には、イザークの第十二肋骨は骨盤の半ばまでずり下がっていた。

 

何度も何度も。

泥山を削り潰すように、マネキンらはイザークの肉塊を執拗なまでの上からの重力でコンクリート床へと圧縮し続けていった。

す~~ごいね……。

人体解剖図の上から順に、名称を辿りながら潰されていく少年の衝撃は凄まじかったです。

「ここでしか見れないものを見せてもらっている」と強く感じたし、それは私がゲームに限らず全ての作品に接する時に求める目新しさだったから。

人が頭から圧搾されていくシーンって、探せばスプラッター映画にはあるのかもしれないけどノベルゲーとしては初めて出会いました。

しかもそれをこんなにも理想のシチュエーションで、的確に痛みを伝える文章で読めるのは今作が最初で最後の可能性すら高い。

他にもこの方法とは違うやり方で少年が殺されるシーンは続いて、その度に唸ったり感心したりして忙しかったな。

 

今作で私が気に入ってるのは少年の断末魔自体はセリフとしてほぼ描写されないこと。

無駄に「ああああああああああ」と叫ばないのは声に出す前に絶命するからという理由が主だけど、でも「あ」の連続がないことはこの作品が幼稚化、陳腐化することを明確に防いでる。

もし今作がネット小説という形で世に出ていたら私は出会えなかったはずなので、ノベルゲームという形にしてくれたことに大感謝。

 

 

アドルフとカフカのBL

ゲームをプレイし終わったあとに改めて夢現の配信ページをみた時、「最も注目してほしい点、力を入れた点」に「アドルフとカフカ(主人公と共に最後まで残るもう一人の男の子)のBL」と書いてあって心底びっくりしました。

あ、あの2人をBLのつもりで書いてたの!?

それに私はどちらかと言うと主人公であるアドルフと、途中で殺されるネームドキャラ:セリムの方がBLっぽいなと思ったよ。


そもそもセリムはアドルフが彼の脱走計画を大人達に密告したから死んでるし、そこに甘い感情なんて一切無い。

でもアドルフが彼にとっての信条、ひいてはこの作品のテーマである「僕たちが殺されるのは必然ではなくて確率」を喋ったのはカフカじゃなくてセリムなんだよね。

【アドルフ】

ここだろうと外の世界だろうと、何も変わらない。
ただほんの少し、死の元凶が人の形をして見えやすくなっただけでさ。

僕らが生きている理由なんて本質的に存在しないんだから、死なない理由だって欠片もないんだよ

【セリム】

「……んなわけねぇだろ」

セリムは苛立たしげに吐き捨てた。

【セリム】

少なくとも外の世界は、ここまで人がほいほい死ぬ環境じゃなかった

【アドルフ】

そうかな。君が周りをよく見てなかっただけじゃない?

【セリム】

ちっ、馬鹿馬鹿しい

また主人公がここから逃げ出さない理由を「教育のため」と言ったのもセリムだし、それを理解不能と切り捨てたのもセリム。

【セリム】

……もし良い教育が受けられたとしても、死んだら終わりじゃないか

【アドルフ】

生きていても初めから終わってるような人生だったろ、僕も君も

 

まあこの後セリムはアドルフをクラスの中で迫害してるし、それとはきっと無関係にアドルフはセリムを売ってる。

その最期のやり取りが私は好き。

アドルフはその際、偶然にもすれ違いざまのセリムと目が合った。

最初、セリムの口元にはただひたすらに目の前の光景を夢なのだと信じ込みたがっているような、乾いた薄ら笑いがあった。

しかし目が合った次の瞬間、セリムがアドルフの瞳の奥に読み取ったものは、セリムの激情を呼び起こす要因となった。


一瞬の殺意。そして程なく襲い来る無力感。諦念。

結局。声を出さぬままの口の端、彼にできたことはアドルフへの呪詛を宙に描くばかりだった。


アドルフは決して視線を逸らさなかった。

殺す者と殺される者。

もうこの先一切交わることのない視線が最後に眼差しだけで交わす感情を、好意悪意問わず私はBLだと感じてるのかも。


セリムが処刑される場に「僕もついて行っていいですか?」と許可を得てついて行ったのもポイント高いよ。

別に彼が自分の密告によって死ぬ責任を見届けるために行った訳ではなさそうだけど、でも優越感や好奇心ともまた違う動機があったはず。

喜びでも悲しみでもない感情でクラスメイトが殺されるのを見てる。

その「見てる」という行為自体がBLっぽいんだな。

boys loveでは絶対になさそうだけど……。

 

 

死ぬという確率の問題

今作のテーマはアドルフがセリムに言った「同じだって言ってるんだよ。ぜんぶ同じ。所詮は選択と確率の話だって言っている」に集約されるんだと思う。

今生きてるのも明日には死ぬのも、幸せになるのも不幸になるのも単なる確率。

子どもたちは自らへとあてがわれた極めて高い致死寸前の数字を、まるっきり存在しないものとして扱うことに決めたらしい。


何故なら子どもたちは、幼少期に覚えたとてつもない不安の数々を思い出していたからだ。

それは例えば飛行機が自身の頭上へと落ちてくる確率。

あるいは不治の病にかかって終末病棟で家族に見守られながら息を引き取る確率。

あるいは自身を除く家族全員が事故にあい天涯孤独の身となる確率。


それらの不安は、待てど暮らせど彼らの身には一切降りかからなかったのだ。

そんな結果が本人にとっては一大事、もしくは全ての理由は、カフカが「自らの存在や情緒を、さも世界中の関心があることかのように位置付けたがるんだ」と説いた通り。

 

ただ前半で執拗に描写されたこの「死ぬのは単なる確率」というテーマを逆手に取ったラストの展開は見事でした。

「なぜ大人達はこんなことをやっているのか」の理由も納得のいく形で明かされる。

これはもう見事としか言いようのない地点にこの物語は着地して、私はその飛躍にずっと感動してるよ。

 

という訳で以下、ネタバレ注意の結末感想。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ感想

100人の男の子を最後の1人になるまで次々と殺す実験の基となったのは、シュレディンガーの猫と蠱毒をかけ合わせた猫の実験から。

64匹の猫をペアにしてそれぞれ箱に入れ放置し、どちらかが死ねばその生き残った方をトーナメント形式でまた箱に入れて、最後の一匹になるまで殺し合わせる。

その最後の一匹にウォーグレイヴと名をつけ(ちなみにこの名前はアガサ・クリスティーのクローズド・サークルミステリー『そして誰もいなくなった』の真犯人名:ウォーグレイヴからきているはず。あれもまた一種のシュレディンガーの猫と言えなくもないので)このウォーグレイヴとまた新しい猫を引き合わせたら、ウォーグレイヴはいつまで生き残るのかという実験。

862回だ。何の数字か想像つくかね?

第一フェーズのトーナメントを生き延びたウォーグレイヴが、第二フェーズにおいて隣の箱へと投入された新たな猫を次々に殺した総回数だ。

つまりウォーグレイヴが確率で死ぬ確率はほぼ確実に0%ということ。

 

この結果を受けて実験者達が出した結論が面白いんですよね。

しかしこの結果から導き出せる結論はただひとつだった。

我々以外にもこの世界を観測し続けている何者かがいるのだ。

今作の主人公であるアドルフはいわばこのウォーグレイヴと一緒。

1%という確率で生き残った彼は、もし今回と同じ実験を何度繰り返しても最後の1人に必ずなる。

 

プレイヤー目線で見るなら「もう後2回ぐらいは試行回数がいるんじゃない?」と思うんだけど、この実験は既に巨額の費用がかかってるし(しかも国家プロジェクトなので全部税金)死なないと断言されている以上、アドルフは死なないんだと思う。

いわば死の確率から逃れた主人公を国の中枢機関に据えて、国力を高めようというのが今回の実験の存在意義。

でもこれって散々「僕らが生きている理由なんて本質的に存在しないんだから、死なない理由だって欠片もないんだよ」と言ってきた主人公にはきつい話だよね。

自分だけには生きている理由が存在して、死なない理由がある。

それを彼が喜んでいないのは「……どうして僕だけが生き残ってしまったんだろう」という最後に発した言葉から分かる。

きっと猫のウォーグレイヴも同じ気持ちだったんじゃないかな。


この「どうして」に対する答えをメタ的に言うなら「彼が主人公であるから」の一言に尽きるんだと思う。

彼が物語の主人公である限り、プレイヤーという神が彼の視点を通してあの世界を観測している限り、彼の死の確率はゼロ。

でもそれが祝福じゃないのは本人だけではなく実験者達ですら分かってる。

 

実験者達は今回の一連の流れを「生きた羊の背中にナイフで直接刻み込まれる血の歪む暗黒物語」と評し、今作のタイトル『ムートン・ノワール』もここから来ているはず。

生きた羊の背がアドルフの背中で、刻み込まれた血が他99人の死。

彼の意思とは無関係に掘られたその傷を、背負わされた運命を、ただ痛々しく思うばかりです。