米産
フリーゲーム、チーム・サルバト作「Doki Doki Literature Club! / ドキドキ文芸部!」をプレイしたその感想。
一時期、このゲームをプレイしたイギリスの少年が自殺したというニュースが流れたが、結局はデマ。
というか、このゲームをプレイしたことがある人なら、「そりゃあデマだろ」と思うはず。
小野正嗣という作家が「九年前の祈り」で
芥川賞を受賞した際のスピーチに、こんなものがある。
作品は、受け取ってくれる私たちを必要とします。
私たち一人一人を受け入れ、「あなたが必要だ、あなたの存在が大切だ」と訴えているのです。
つまり作品は、それに触れる人が「生きること」を望みます。
「あなたに生きてほしい」。
だからこそ、素晴らしい作品に出会ったとき、私たちは「支えられ」、「励まされ」、「救われた」と感じるのです。
作品とは「与える」ものです。
私がドキドキ文芸部に感じた精神は、本当に上記の通りで、上記の通り、ドキドキ文芸部は素晴らしい文芸作品だった。
プレイヤーが「生きること」を望む、超一級の。
だから、この作品が原因で自殺者が出たなんて、冗談でもファンなら誰も言われたくはなかったと思う。
モニカが愛したのは、プレイヤー自身の「可能性」だ。
生きて、考えて、動いて、現実の社会に接することの出来る私達の、無限にも近い可能性。
だってそれは、記号と数字のプログラムで組まれたモニカ、
サヨリ、ナツキ、ユリには無いものだから。
彼女たちには、発展・成長の余地はどこにもない。
あるのは、消滅と再現が繰り返される現状だけ。
「こんなのは嫌。
私には何も出来ない。何も。
あなたが何度プレイしても関係ない。すべて同じ。
自殺することは簡単、本当に簡単。でもそれは
あなたともう二度とお喋り出来ないことを意味する。
私が望むのはあなたがそれを嫌悪することだけ。それがそんなに難しいこと?」
だからこそ、モニカは”そうではない”プレイヤーを愛した。
自分を取り巻くプログラム環境を書き換えて、壊して、滅茶苦茶にしてまでも強烈に愛して、焦がれた。
なぜなら、生きているから。
「あなたは私の世界を照らす光」
つまりプレイヤーは、生きている”だけ”で、モニカから愛される存在になる。
は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、泣く。
ありがとう、モニカ。ありがとう、チーム・サルバト。
「そのままの君でいいんだよ」「そのままの君が好き」と、
乙女ゲームなら腐るほど言われる台詞だが、私が彼らから、”本当に愛されてる”と感じたことはない。
こっちからは好きだと思うけどね。
でもその愛をモニカから感じるのは、モニカが自身の、いっっちばん理解したくなかった現象(周囲がプログラムであるだけの存在)ということを利用してまで、プレイヤー側の方向に来てくれようとしたから。
そして、プレイヤー側はその愛を否定すること(Monicaのキャ
ラクターデータを削除)でしか先に進めないと分かったら、彼女をデリートしてしまう身勝手な現実者だから。
そんなプレイヤーを、Monicaはまだ愛し続けていると分かるエンドだから。
だから、だから、この「ドキドキ文芸部」は素晴らしい。
どこまでも、こちら側の生を望む、エールに満ちた作品だということを余すこと無く伝える、
ゲームデザインが凄い。
ただ、今の社会がこういう「生を肯定する」
ゲームデザインを求め、需要があるのなら、それはそれで考える所があるなあ、とは思った。
女性向けだと「MakeS -おはよう、私のセイ-」とかね。
「囚われの
パルマ」が先かもしれないけど。
どちらも、コンテンツとしては莫大な利益を上げている。
プレイヤーのスワイプをキャ
ラクターの視線が追う、それだけで生まれる「愛しい」という気持ち。
「愛されている」という実感すらも、優秀なデザイナーよるデザインの誘導に過ぎない事実は、結構心に重い。
ただそのデザイナーの制作意図が「皆が愛してくれるものでありますように」なのだから、この世界は素晴らしいよ。
こちらは日本製で、5分程度のボリュームながら、ずっと忘れられない余韻がある。
システムから干渉を求める、メタ視点的なものの真髄が、かちっと捉えられていると思う。
公開停止になっていなかったら「虚構に咲くユリ」という
フリーゲームも紹介したかったなあ。
こちらは、Monica側の、自身がプログラムされた存在に過ぎず、世界から抜け出せないという絶望が体験出来るゲームだったんだけどね。